歴代支部長座談会

所沢支部 歴代支部長座談会(2018.5.26)

参加者
渡部孝第6代支部長(平成13~16年度)
志村昭夫第7代支部長(平成17・18年度)
莊司八惠子第9代支部長(平成23・24年度)
高村五男第10代支部長(平成25~28年度)
小泉昌子第11代支部長(平成29年度~)

【支部の歩み、記憶に残る出来事】

渡部私が昭和53年に開業した頃は開業会員は13人で私が14人目でしたが、今では支部名簿の上から3人目になってしまいました。
先輩の方々の中で特に印象に残っているのはやはり初代支部長の赤津先生ですね。お酒が好きな人で、宴会があると必ず三度笠を用意してきて踊って盛り上げてくれました。昭和56年第二次法改正早期実現のための決起集会の時のことですが、赤津先生が先頭に立って旅姿三人男を披露したことは忘れられないですね。社労士法制定25周年祝賀会の時には所沢支部が所沢音頭の踊りを披露しました。これも懐かしい思い出です。何度も集まって練習してね。横断幕も誰かが作ってくれ、衣装も借りて盛大にやりました。
莊司私が開業したのは第3代松澤支部長の頃ですが、総会などをするのに所沢神明社の社務所を借りてやっていたことがあります。
当時女性会員が4人(他に村田昌代先生、森田まこと先生、九貫あい子先生)でしたが、その4人で食べ物や飲み物の用意から後片付けまで全部やっていました。今からすると信じられないことでしょうが、その当時怒ったのは私だけでしたね(笑)。
渡部私が支部長の頃の支部会や総会は所沢文化会館、新年賀詞交換会は晨緑苑でやっていました。
志村渡部支部長、私の頃から急激に人数が多くなってきたので、会場探しには苦労しましたね。
高村所沢支部の広報誌は、松澤支部長だった平成6年に創刊したんですが、私はそのときの広報担当でした。 支部として初めてのことなので手探りでしたが、ワープロで打って作ったのを覚えています。青い用紙をコンビニに持ち込んでコピーしました。志村先生や莊司先生にも原稿を寄せてもらいましたね。
串崎最近の支部広報は写真が多くなっていますが、当時は文章が主体で、会員の方々がそれぞれいい記事を寄稿されていますね。「事務所訪問」、「ああー困った!」などのいいコーナーはぜひ再開してほしいです。

【支部長を務めた頃のこと】

渡部私は第5代高梨勝次郎支部長の後を引き継いで支部長を務めました。私が支部長を担当した頃は、支部会員数がどんどん増加していく時期でね。それで支部の組織や行事を一旦見直すことが必要になった訳です。毎年行っていた所沢市民フェスティバルでの「労働・年金何でも相談コーナー」を一時取りやめ、必要性の少ない委員会は廃止して合理化を図ったのを覚えています。ただ、支部運営に必要なことについては新しい取り組みも始めました。理事会参加者に日当を支払うようにしたのは私の代からです。
串崎志村先生が支部長になられた当時はどうでしたか?
志村支部長を引き受けたのは、野口先生に「次お前だぞ」と言われたからです。「いやぁ・・・」って躊躇していたら、「今年断っても来年また言うからいつかはやるようだぞ」と言われたので、それなら早くやっておこうかなと腹をくくって引き受けました。
当時副支部長をしていた3人のうち次期支部長と目されていた大囿先生が体調を崩されたので、自分しかいないかなと思いもありました。
でも総会のやり方等についてもほとんど経験のない中で引き受けたので、最初は随分苦労しました。
串崎どのような支部にしたいと考えられていたのですか?
志村ちょうど会員数が急増してきた時期でした。とにかくみんなに参加してもらわないと支部がやっていけないので「楽しい支部やろうよ」と言った記憶があります。最初の理事会で「人の悪口を言わないようにしよう」ということを言いました。人事は苦労しましたが、今から思うといい人事だったなと思います。榎戸総務委員長、大里財務委員長をはじめとして皆さん協力してくれたので楽しかったですよ。支部会と支部研修を一緒にやるということも私の時に始めました。
消費税が導入された時期で、税理士である大里先生のご主人に講師をしてもらって消費税の研修をした時は、部屋に人が入りきれないくらい大勢の参加者が集まってくれました。とにかく人に集まってもらおうと努めていたので、支部会も厚生行事も結構人が集まってくれました。
当時は支部旅行に行政の人も一緒に参加してくれていました。労働基準監督署の署長と一緒に行ったときは、署長がクイズを作ってくれて和気あいあいの中にも勉強になりました。
串崎莊司先生は、所沢支部では初めて、埼玉会でも経験者が殆どない時期に女性支部長をされましたが、そういう面でのご苦労などはありましたか?
莊司苦労という苦労はなかったです(笑)。
私が社労士になったのは約30年前ですが、その頃埼玉会の女性会員は約1割で700人中70人でした。所沢支部では女性会員は4名でした。入った頃は結構封建的な男性社会に感じましたね。というのは前職が公務員でしたので、それに比べると少し違和感があり、社労士の組織は変えていかなければならないという思いが心の中にはありました。当時は埼玉会に婦人部というのがあったので、まずそこに入って意見を聞いて、女性が結束して理解を得ていこうと思いました。婦人部では前任の金子先生(浦和)の後を引き継ぎ4代目の婦人部長になりました。
3期務めた後、アンケートをとってやめることになりましたが、最後に行った研修会は大変盛会でしたよ。その後は女性会員もだんだん増え、役員も増えてきました。とは言っても埼玉会では委員にはなっても「長」とつく人はいなかったと思います。女性支部長としては熊谷の寺山良子先生が最初だったのではないでしょうか。
支部長になったのは順番だと思いますが(笑)、引き受けるにあたってやりたいことを3つ挙げました。「1研修による知識の涵養。2厚生事業による支部の活性化。3職域拡大」この3大指針を掲げて組織づくりに取り組み、支部会員にも協力してもらえました。
厚生活動では、近藤委員長をバックアップして「所沢支部勝つぞー!」という機運を盛り上げていけたのが良かったです。
串崎そのお蔭で最近では支部対抗のスポーツ行事でも所沢支部が上位に入るようになってきましたね。
串崎さて、所沢支部は女性の役員が多いと言われますね。
莊司段々と増えてきましたね。第8代大川支部長の時に私が副支部長で総務委員長を小泉先生が務めました。重要な役を女性会員が担当するようになってきたのはこの頃からではないでしょうか。男性社会だった社労士会が少しずつ変わってきたように思います。
串崎女性が宴会の準備をしなければならないというような慣習も現在ではなくなっていますね。
莊司昔はソフトボール大会の時に焼きそばを作るのが婦人部の役目で、「婦人部役員は包丁と前掛けを持って来い」と言われたのにカチンと来た記憶があります。
そんなことがあって女性陣から弁当にするよう提案して、現在に至っています。
串崎高村先生が支部長をされた頃はどんなことがありましたか。
高村莊司支部長の時に副支部長をやっていて、つつかれて次は支部長をと言われていたんですが、実はやるつもりは全然なかったんです。心を決めたのは総会の直前です。
私の場合非常にやりやすかったのは、莊司支部長がきちんと道筋を作ってくれていたので、それを引き継いでいけば良かった。それから副支部長をはじめ総務委員長ほかよく支えてくれる仲間、役員がいたことが本当に良かったと思います。
支部会、理事会が終わった後にそのままサヨナラと帰ってしまうのではせっかく集まったのにもったいないですよね。少なくとも新入会員の方には声をかけて、堅苦しくなく本音を語り合える場を設けるようにしたのも良かったと思います。
思い出に残っているのは、埼玉会のイメージキャラクターしゃろたまが誕生して、初めて所沢に呼んだ時のことですね。どうやって所沢まで来てもらうのか埼玉会事務局に聞いたら「迎えに(取りに)来てください。」ということで車で行きました。隣の席にしゃろたまを乗せてニコニコして帰ってきたという話を何かに書いた記憶があります。
串崎平成27年度の支部会報は、しゃろたまと一緒に高村支部長が満面の笑みで表紙を飾ってくれましたね。
高村先生が支部長として力を入れたのはどんなことですか。
高村支部活動は支部の役員のためのものではないですよね。支部の会員一人ひとりに楽しんでもらって「やっぱり所沢支部にいて良かったな」と思ってもらいたい。みんな自営業の集まりだから価値がなければ出てきてくれない。この会が自分にとって役に立つなということを実践したいと思い、前任支部長からの方針を引き継ぎ、支部会と支部研修を同日開催するようにしました。
支部長として一番辛いのは支部会に人が集まらないことなんです。あまり集まらないと自分のやり方が悪いという気持ちになるんですね。座談会形式やミニ研修コーナーなどいろいろ試行錯誤しても人が集まらず辛かった時期もありました。自分も仕事を抱えながらのことですから、仕事の合理化も図らなくてはなりません。電子申請を取り入れて業務の合理化を図ったおかげか2期目からは大分楽になりました。
次の支部長を誰にしようかという時に、莊司前支部長からの女性支部長の流れを途切れさせたくないという思いがあって小泉先生にお願いしました。今思い返してみても結果としていい人を選んだなと実感しますね。後任を誰にするかの人選も支部長の責任ですね。

【支部長として苦労したことなど】

小泉支部役員を選ぶのはなかなか苦労しますね。次期は絶対この人にこの役をやってもらいたいと思っていたのに断られていまい途方に暮れたこともあります。でも引き受けてくれた人は皆さんしっかりやってくれるのでありがたいです。
莊司役員をやるのは能力というより支部のことを分かっているかどうかが重要だと思いますよ。
志村支部長をやるなら総務委員長を一回経験しておかないと難しいですね。僕は経験ないのにいきなり支部長になったから大変でした。
莊司支部長になるために何をしたかということで言うと、私はワープロの時代の人間なのでパソコンが苦手だったんです。支部長になるとメールがいっぱい来るし会議の書類もパソコンで作らなきゃならない。それで毎週1回近所のパソコン教室に通ってみっちり講習を受けました。
串崎書類や資料作りも元々は手書きだったんでしょうが、それがワープロになり、パソコンになり、通信方法も今はメールでのやり取りが主体と移り変わってきていますね。

【社労士なったきっかけ】

志村社労士をやろうというきっかけは何ですか?
莊司資格は大学を終わって取ったのですが、まず公務員になったので開業はまだまだ先だと思っていました。
志村私も公務員を6年経験したときに共済年金を担当していて、その後もずっと人事畑だったので、資格を取るなら人に関する資格を取りたいと考えていました。
「開業しても3年は食えないと思ってその分の準備をしてから始めなさい。」と言われたことがあります。最初は東京会でスタートしたのですが5年間は本当に食えませんでした。それで一旦社労士は断念して、顧問先の建設会社に頼み込んで入れてもらったんですよ。そこで出会った人に「一緒に会社を作らないか。」と誘われて、僕が専務で彼を社長にして建設会社を作りましたがそんなに甘くなかったですね。建設業って素人が始めてできるようなものではなくてまた社労士に戻ることにしました。
高村私は話せば長くなりますが(笑)、サラリーマンを19年(総務関係を約9年、経理関係約10年)勤め、経験を積んで役職についたりもしたんですが、もう少し掘り下げてやりがいのある仕事がしたいという気持ちが沸き上がってきました。その時にたまたま総務の経験を活かせる社労士という資格があることを知って勉強し始めたのがきっかけです。5年計画くらいで食べられるようになればいいなと思ったんですが、合格したときには、ここで思い切って開業するかどうか迷いました。家内は「大変かもしれないけど、折角合格したんだから悔いを残さないようにやってみたらどう」と背中を押してくれたので、それこそ清水の舞台から飛び降りるような、富士山の五合目あたりから飛び降りるような気持ちで開業を決めました。始めてみたら案の定収入がないんです。サラリーマンと違って定期的に入ってくるものがありません。それでも学生時代の知人や家内の知り合いの税理士さんから紹介してもらって、初年度に3件くらいの顧問先ができ、これで「何とかやれるのかなぁ」という気持ちを持つことができました。
以前にも自分の開業当初の大変だったころの体験を恥を忍んで支部会報に載せたことがあるんですが、新しく開業してきた人に先輩としての体験を知ってもらって参考にしてもらえたらというのが真意なんです。とにかく開業以来支部の先輩や仲間とコミュニケーションをとり、悩んだときはアドバイスや情報をもらって何とかこの仕事で食べていけるようになってきました。今になってみると、かつて在籍していた会社も今は吸収されてなくなってしまったということを聞くにつけ、社労士で開業した自分の選択は正解だったんだなと改めて実感します。定年もないし、お客さんに喜んでもらえて報酬もいただける。あと何年できるかは分かりませんが天職だと思っているので、体力と気力の続く限り頑張りたいし、そのためにも毎日のトレーニングは欠かさないようにしています。健康づくりと言えば支部のボウリング同好会で月1回の練習で汗を流すのが楽しみでもあり、レベルアップできる充実感がありますね。
開業したばかりの会員に言いたいのは、個人事業とは言ってもやはり仲間があるのは仕事の上でも心強いので、そのためにも支部会や厚生事業にどんどん参加してほしいですね。
小泉高村支部長の代では、埼玉会の球技大会でグランドスラムを達成したことがありましたね。ゴルフ、ソフトボール、ボウリングのすべての優勝トロフィーを獲得したのが高村支部長の代でした。
高村莊司支部長の代から継承してきた3大指針の一つ「厚生活動による支部の活性化」の成果と言えますね。勝つのが目的ではないんですが、みんなで集まって技量を高め、その結果勝利を収めてグランドスラムを達成することができました。3つの優勝トロフィーが揃った写真を支部報やホームページに載せることができたことは支部会員の皆さんの励みになったと思います。
莊司「研修による知識の涵養」の面では、私が支部長の時に長沢研修委員長が果たした役割が大きかったですね。以前は講師として行政の方に来てもらうことが多かったのですが、弁護士や有名講師を招いて「お金を払って東京に行かなくても同じ内容の研修が無料で受けられる」支部研修を企画するようになったのは画期的なことです。
小泉職域拡大についてですが、社会貢献事業として出前講座、労働条件審査など所沢支部が他支部に先駆けて取り組みを始めた事業もありますね。
莊司出前講座は私が支部長の時に初めて取り組みました。いくつかの学校に案内を出しましたが始めのうちは全く反応がなかったですね。
今では埼玉会の事業に昇格して県内各地の中学校、高校で出前講座が行われるようになりました。
労働条件審査の取り組みについても私の代に始まったものです。
小泉労働条件審査については、昨年度から周辺市町村へのプレゼンを行い各市町村からのニーズの聞き取りを行って、少しずつ目に見える形になってきている状態です。報酬をどうしたらいいかなど考え方は色々ありますが、今後に向けては、まず1件でも実施して実績を作るということが大事だと思います。
志村行政との関わりについて言うと、今はあまりお付き合いがないけれど昔は交流がありました。カラオケとか花見、ソフトボール、旅行も一緒にやっていました。
高村今は電子申請が多くなったこともあり行政の窓口に行くことも少なくなりました。
志村昔は必ず窓口に行ったから担当者と顔なじみになることがありましたね。ある時都内の行政窓口に行ったら所沢にいた旧知の職員いて声を掛けられたことがあります。お互いに顔を覚えて信頼関係ができていました。
小泉行政協力の機会もだんだん少なくなってはいますが、経験の浅い会員の皆さんにも積極的に参加してもらい、こういう場をチャンスととらえて自分の知識を深めたり、業務拡大に役立てていってほしいと思います。初めてで不安感はあってもまず手を挙げてください。分からないことはいつでも先輩がサポートするなど支部としてもバックアップしていきたいと考えています。
支部長就任の挨拶に書きましたが「支部とは会員が心身ともに健康で豊かになることに寄与するもの」というのが私の考えです。支部が本当に役に立つ情報を与えられる場、人の輪を作れる場にしたいと思います。